紀元前もずっと前に、インドで遊び始められたサイコロ双六が西に渡りチェスへ、東に渡り将棋になった、というのがショウギ伝来の定説だったりするが、ここではまあこだわらない。ただ、こんな遊びを思いついてくれた先人に驚きと感謝をするのみである。
将棋やチェスは長い歴史のなかで、いろいろな階層の人たちに愛された遊戯であった。遊ぶ人の階層によって駒や盤の素材も様々であった。下町や長屋で遊ばれていた時代であれば、粗末な板に墨で線を引き、木切れに文字を刻んで楽しんだし、坊主や大名などが使用した駒は、本黄楊虎斑が刻まれた盛り上げ駒、書体は当代きっての名職人によるもの。盤は南九州の山林から切り出した樹齢500年を越す榧の一品。椿油で何度も磨き上げられたそれらが、乾いた音を響かせる。
特に日本人は素材を活かすことに命をかけていたような節がある。駒を磨いてつやを出し、乾燥を防ぎ木のこまやかな触感や、打ち下ろしたときの澄んだ音にこだわった。素材を吟味し、長い年月が経てば経つほど、いわゆる味、風格が漂い始めるのである。
西洋でのチェスの普及はよく知らないんだけど、当初は貴族間で流行ったと想像する。所有するチェスの駒にお金をかけて他の貴族と差別化を図ったに違いない。チェスの駒は立体であり、形、デザインのこだわったのではないだろうか。高級インテリアの店では店頭に不思議のアリスの世界を体現したチェスセットが陳列されていることがある。ガラス製で、駒一つ一つがアリスの世界に出てくるキャラクターだ。表情豊かであり、ちょっとした彫刻作品である。また、色彩にこったもの、宝石などで飾ったものなど、バリエーションも豊富である。
もちろん、ここにどちらが優れているといったようなことはないわけで、ああ、文化の違いがこんなところにも出ているのだなあと思うだけなんだけれども。石で家を作った文化と木で家を作る文化の違い、とでもいうのか。遊戯道具に見られるこの特徴は剣、刀と同じ感覚だろう。
日本人は刀の美しさを、刃自身に求める。いわゆる素材である鉄綱の鍛え具合、すなわち素材からいかに刀としての能力を引き出すか、といったところに力点をおく。機能美とでもいうのかな。西洋の剣は美しさを柄や鞘のデコレーション、剣のデザインに重きをおく。西洋の名刀はいわゆる芸術作品であり、剣としての機能にはさほどこだわらないようだ。
長い歴史が培ってきた東西の指向の違いは、そこかしこに偏在しているものなのだ。