悲しき女流棋士


 週刊将棋(No1004)で女流棋士である横山澄恵女流二段の自戦記が掲載されていて。後半に女流棋士に対する風当たりに対してささやかな抵抗を行っていたりするのだが。いちいち反論してみようかな、と。

現在女流棋士は46人まで増加しているがアピールの機会を与えられるのはほんのひと握りの人たちだけで

 男性棋士だってほんの一握りですけれど。自意識過剰じゃないですかねえ。逆にいえば「今の実力」に見合っているというか。認めてもらえる活動や結果を残しているのなら、主張すればいいと思うのですが。ここではなく連盟に。

「これからは女流棋士になってすぐにタイトル争いに加われるくらい力の強い者の存在だけが女流棋界には必要である」という乱暴な意見を時々耳にするのだが、

 うーん。「乱暴」と修飾するところから、「人の気も知らないで」、という感情が見えますね。ところでそんな意見はどこで言われていることなのかな。風の噂で聞き及んだのかしら。それとも投書? あるいは怪文書(笑)。まあそんなことでいちいち目くじら立てなさんなって。正論には反論できませんから、軽く受け流しておけばよいのですよ。しかし実力主義にしろ、というのは乱暴ですかねえ。そのあとを受けて、

女流棋士の魅力がそれ一本に絞られるというのなら、将棋も弱い駒をなくしてすべて飛車・角に変えてやってみてはいかがだろうか?

 と比喩で批判してます。だったら弱い人を入れろ、とでもいうのかしらん。で、そのあとに

強い駒だらけで楽しさ倍増かも…。

 が余計。どっちやねん。自分の意見に自信がないのか。ただおもねっているのか。だったら何に対しておもねっているのか。自分で振っといて茶化すって、どうなんですかね。

 「女流棋士の価値は強さだけじゃない」と主張するのであれば、それでは何が価値なのでしょう? 将棋が強い女性という希少性でしょうか。というかそれしか思い浮かばない。女性のほうが普及に向いているという冗談も耳にしますが、まさかそれを拠りどころにしているわけでもないでしょうし。「女流棋士の本」(※書評)のような、棋士の特性を極力排した本を作るということが象徴的なのですが、実力トップ女流棋士を除いて只のタレントなんですよね。早い話、私生活を切り売りして生活しているわけで。というかそれのみにしか価値を見出されていないのが現状。将棋の強さよりも、将棋がちょっと強い変な女性という特性で、かろうじて価値を認められているんですな。そうでしょ?

 その状況を脱するには、最低限、強さを身に付ける必要があるでしょ。あなた方は棋士、なんだから。少なくとも、アマチュアトップに完勝できる実力が最低ラインです。それが嫌(というか将棋の修行をするのが嫌)で、例えば普及で貢献したいんであれば、棋士の肩書きなんて関係なく活動してくださいよ。普通に連盟の職員になって活動されても一向に差し支えないですし。そちらのほうが職業を詐称していない分、誠意があるというものです。

人数が増えていかないのが難点だが

 当たり前です。魅力ないんだから。これは横山さんも認めていますね。

 実力をつけるために女流全員、奨励会に編入させればいいんだと思う。奨励会員にはいい迷惑(ボーナスゲームか?)かもしれないけれど。すぐには無理なら、女流と奨励会で月一回でも交流戦を行えばいい。とにかくより強い人と当たる機会を強制的に増やしてレベルアップを狙うしかない。これしか女流棋士の価値が上がる方法はないんじゃないですかね。

何でも決め付けだけで判断するのではなく

 思うに、決め付けて行動できなかったが故に、ツケが回ってきたんじゃないでしょうか。全員の顔と立てて物事を決めるなんてできるわけないし。誰かが貧乏くじを引かなくちゃならんのですよ。本気で変わろうとするのであればね。そういう覚悟が誰もないんだよ、結局のところ。


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初版公開:2003年8月2日 最終更新:2003年8月9日
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