常識を超える力


 名人戦第三局二日目、羽生の封じ手を見たものは一応にのけ反ったという。端に手を掛けた後手藤井システムに対して急戦を仕掛けるという、今課題になっているらしい局面で森内が▲3二歩という新手を出した。それを見た挑戦者羽生は二時間以上も考えてそのまま封じたと言う手である。そのあたりの変化や、如何に羽生が圧勝したかについては将棋タウンでの解説が詳しいのでそちらを参照して欲しいのですが、それにしても、△4四角というのはなんという手だろう。ある程度棋力を持った方なら、▲同角△同飛▲8八角と指され先手で香損+馬を作られてしまうのでまず読みから外す手ですよね。その後の展開のことはまず考えない。考えたとしても、飛車を引いたら馬にいじめられそうだし、右辺へ展開しても歩越しの飛車ですから、先ほど取られた香の格好の餌食に見えるので、二重に考えないわけですよ。先手は手順に手厚く指せるのでどうしたって優勢だと判断してしまうし、こんな虫のいい手は指してくれないと当然思ってる。でも羽生は指した。

 ふらふらと頼りなげに飛車が盤上を駆け巡り、森内が手厚く▲4七金と受けるとバッサリ飛車を切って、そのまま△5七角と露骨に喰らいつく。すでにこの局面が後手十分だというのだから、将棋っていうのは難しいんだよなあ。飛車香+馬と銀の交換で先手は大幅に駒得を果しているのよ。でもこの瞬間の駒効率っていうのが後手の方がはるかによくて、駒損を補って余りあるっていうのだから驚くの驚かないのって(いや、驚くんだけれど)。まず、後手の遊び駒の少なさ。2一の桂ぐらいじゃないか? これも1一の馬に取られることによって馬筋を変えることに繋がれば働いたことになる。反対に先手は右辺の桂香が遊んでいる、4六の金は4八の飛車の進入の邪魔をしている、一番辛いのは3二の歩が完全に無駄になっていることだ。先ほど言ったように、2一と馬が桂を取れば、桂得になるが、馬筋が3二の歩によって遮断されるのが激痛なのである。加えて飛車を敵陣に打ち込むにしても、後手陣は平べったい美濃囲いのため隙が少ない。側に打つのは後々弾かれる危険があるので遠くから打ちたいが、3二の歩が邪魔になっていて打ちづらい。この歩がなければどれほど局面が異なったかわからないほどだ。

 そして一番大きかったのは玉の堅さかな。後手の手付かず美濃対先手は銀一枚の囲い。遠くから馬が利いていたとはいえ、この形は後手がいくらでも無理が利く展開だ。穴熊より陣形が広い分、結果的に先手玉の逃走経路も狭めており、局面全体を支配しているような形勢になってしまった。森内は馬を引いたりして徹底抗戦の構えに出たものの、玉が薄いために下手に駒を渡せず、指す手にもがき苦しみながら、攻守の要であった馬を追われてしまい、無残な姿で投了となってしまった。

 注目するべきはなんといっても、羽生の先入観にとらわれない発想だろう。将棋にはまずこう指していればまず間違いない、という手を選択しがちであり、常にその範囲にある候補手から選ぶものである。プロはそれが無意識に浮かぶわけだし、その無意識の選択が鋭ければ鋭いほど上位に立てる仕組みになっているのである。ただしそれでは、一流棋士にしかなれないわけで。さらにそこを越えるには無意識から零れ落ちた手を拾い上げて丹念に読み込み、新しい価値感を生み出していくしかない。羽生は島の名著「読みの技法」の中で、「将棋は、思いもかけない手がいい手になることもありますから、〜略〜、丁寧に読みの裏づけをとることが肝要だと思います」と述べている。彼のこうした柔軟さ、言い換えれば曲線的な将棋の凄みを今回は存分に発揮したという意味で、本局は大変評価できるんじゃないですかねえ。


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初版公開:2003年5月17日 最終更新:2003年5月24日
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