名人位はゆらぐ

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 名人にはどんな能力が必要だと思いますか。と聞かれたらあなたはどう答えるでしょうか。品格? 強さ? リーダーシップ? 美学? 狡猾さ? 余裕? 僕だったら品格かな。もちろん将棋が強いことが前提ですけれども。

 僕が将棋に触れたとき、名人位にいたのは中原永世十段であった。強かったしなにより将棋に魅力があった。自然流と呼ばれた指し口に惹かれたのだろう。次に名人位についたのは谷川九段。光速の寄せ、こじ開けるような攻撃、前進することに躊躇しない潔さがすごいと思っていた。両者とも将棋に潔かった。きれいな将棋を指していた。名人位に立つ将棋指しの棋譜はなんと美しいのだろうかと感動した。僕の名人位に対するイメージはこのようにつくられたのだった。

 このイメージは名人位に品格を求めることにつながる。つながるけれどこのイメージは名人個人のイメージであって名人位には必要のないものだ。だってそうでしょう、順位戦で手にすることのできる名人位は、実力制名人位だからである。順位戦で勝ちさえすれば手に入れることのできる称号でありその意味では、他のタイトル戦と同じなんだな。今まで名人位ついた人たちも、結局その人の個性が発揮されたそれだけの話なのである。たまたま品があったり、リーダーシップがあったり、狡猾であったり、妾を作ったりした人が名人位についただけなのである。今までは逆に、名人位を得るには天に選ばれなくてはならない、うんぬんといっていたんだ。米長永世棋聖も昔は「名人位は選ばれる」と語っていたが自分が名人位につくと「名人位は奪い取るものだ」といっていた(ような気がする)。というわけで生涯勝率が7割を越える丸山が名人位につくことは至極当然であり、名人位を防衛するのもやっぱり当然だ。

 そうはいってもやはり順位戦は別だよ、とか名人位は他のタイトルとは違うんだと主張する方もあるかもしれない。でもねえ、名人位に実力以外の能力を求めるのは、やっぱし無理なんじゃないですかね。制度がもう、勝ったモンがえらいんじゃ方式である以上、逃れられないです。例えば、将棋連盟が不安定だったときのまとめ役として名人だとか、第一人者としての名人だとか、そういう仕事は現在別の人がやっていますしね。そうだよ、昔の名人にはたくさんの役割があったけれど、現代は分散しているんだよ。

 名人位は時代によってその意味合いを変えて行く。それは人間社会のかなり例外的な世界だとしても避けることはできない。絶対的象徴的意味合いを急速に失っている名人位は、すでにその他のタイトルと同等の意味合いしかなく、棋士達の給料の物差しにすぎなくなった。将棋界を代表し、その象徴としての名人位はもはや存在しない。これが現実。なんだか悲しいね。


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初版公開:2001年06月23日 最終更新日:2001年08月07日
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